翻訳と履物とわたし

こういうエントリを書くのは柄じゃないんだけど、


愛・蔵太「[ネタ]引用テキストの多いぼくの日記でカエサルの「人は自分の見たいものしか見ない」という話をしてみるよ」
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20070624/kaesaru
について。


id:lastline「最終防衛ライン2 - 引用のみサイトやってて楽しいの?」
http://d.hatena.ne.jp/lastline/20070623/1182574000
を俎上に、蔵太さんは例によって少しどころか大変調べた上で、意見を述べられています。
僕にはラテン語の知識がまるでないので「すごいなー」というのが読後感ですが、その前に、「あれれ、lastlineさんの対象に蔵太さんは含まれないだろう」と違和感を覚えました。
多分、蔵太さんはそのことをご承知の上のことと思います。だからこそ、[ネタ]というタグを付けられたのでしょう。
んで、コメント欄を見ると同様のことをlastlineさんが書いているので、僕の判断は正しかった、嬉しいな。というそれだけなのですが、もうすこし。


カエサル箴言について、蔵太さんは
Men readily believe what they want to believe.
といった文を例に、「人は自分の見たいものしか見ない」は誤訳、が言いすぎなら、誤解を招く訳だと批判している。


ところが西欧文訳では、結構この手の例は多い。
有名なのは「Remember Pearl Harbor」で、これを日本語に直訳すると、「真珠湾を覚えていろ」になってどうも格好がつかない。というか誤訳にすらなりえます。
ここはやはり、「真珠湾を忘れるな」とならなければならない。
肯定表現が否定表現に変わるのですが、このような西欧・日本間の言語差は結構大きなものらしいのです*1


「人間は、自分が信じたいと望むことを喜んで信じるものである。」という訳は正確だし、内容も正しいんですけど、こなれた日本語という感じがしません。論説文やマニュアルで、このような誤りがあってはなりませんが、「ガリア戦記」には古典文学という側面があって、僕的には複雑な思いです。


そういうわけで、否定表現を採用した「人は自分の見たいものしか見ない」という訳は、僕としては支持したいというのが本エントリを書いた動機です。


以上は、言語についてです。次に文化史についてちょっと書きます。


中世では西欧でも日本でも、雨の道路に悩まされました。履物が泥だらけになるからです。
そこで西欧では道路を舗装することにしました。これはつまり、「道路が濡れている」という肯定的な発想からくるものですね。
日本では足下駄を使うようにしました。これはつまり「下駄の歯が長くない」という否定的な発想からくるものです。
言語は思考を縛るものですが、ちょっと面白い。


このような差は両文化の優劣を表すものでないことと、このような発想は誰だか忘れちゃったけど誰かの受け売りであることを表明して、終わります。

*1:稀にですけど、僕も英文マニュアル等を翻訳することがあって、この違いを頭に入れておくと便利に思います。